樺太開拓記念祭




■ 樺太開拓記念祭 ■




 毎年8月23日、北海道神宮本殿及び同神宮境内の樺太開拓記念碑前にて、樺太の開拓と守りに挺身した幾多先人の功績を称え、また、樺太開拓の途上に散華した幾万諸霊の御霊が安らかならんことを祈念する、樺太開拓記念祭が斎行されています。



●開拓祈念碑 碑文

 樺太は古来わが蝦夷地の一部として
 カラトの島と呼ばれ
 経営の歴史は十六世紀の昔に遡る
 一五九三年豊臣秀吉から松前
 蝦夷地の支配を許された蛎崎氏は
 のちに松前藩となり
 一六七九年から藩士を出し
 久春古丹(大泊の楠渓)に陣屋を設けて統治の端を開いた
 以来約百三十年間藩政は定着し邦人の出漁も次第に増した
 ところが一八〇六・七の両年に亘りロシアのフォースーフらが久春古丹や留多加を襲うにいたって
 幕府は樺太を直轄して自ら守ることになった
 このころから幕吏や憂国の士の樺太探検があいつぎ
 一八〇八年松田伝士郎
 間宮林蔵が北樺太を究めた功績は間宮海峡の名と共に不滅である
 その後ロシアのネヴェルンスキーらが
 久春古丹に進駐した(一八五三)が
 翌年長崎会談の結果撤退した
 つづいて日露通好条約ができ(一八五五)国交は約二十年間安定した
 しかるにロシアは軍艦の威力を示して東進を迫るに至り
 明治新政府は内外の多端に負われて
 樺太を貧小十八の千島と交換せざるをえなかった(一八七五)
 さらにロシアの進路は満鮮に転じて国交はいよいよ緊迫し
 遂に日露の開戦となった(一九〇四)
 幸い戦いは日本の大勝に帰し
 翌年両国はポーツマスに会して和を講じ
 漸く樺太の南半分を回復したのである
 以後四十年間われわれの父祖はここを墳墓の地と定めて不毛に挑み酷寒に抗し
 心血を注いで殖産を興し
 制度を整え文教を進めて近代樺太を築き上げた
 かくて島民待望の内地編入が行なわれ
 年間の総生産額は四億円に上り人口は四十万を算した
 この宝の島が一九四五年(昭和二〇)大東亜戦争も末期となった八月九日未明からソ連軍の進撃するところとなり
 翌年ソ連はその領有を宣言したが
 米英等四十八ケ国は対日平和条約(一九五二)においてそれを認めず
 日本に放棄させた樺太と千島十八島の帰属を定めなかった
 われらこの史実を辿り北辺の開拓と守りに挺身した幾多先人の功績と犠牲を思えば
 痛恨愛惜切々としてつきない
 ここに樺太四十万引揚者の赤誠を結集して不朽の碑を建て
 先覚の偉大な功績を顕彰すると共に
 開拓の途上に散華した幾万諸霊の冥福を祈る標となし
 もって民族の行路に一灯を掲げるものである

 昭和四十八年八月二十三日
 社団法人全国樺太連盟会長 梅内正雄
 元樺太庁長官  小河正儀












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