由来
明徳元年越前国敦賀郡気比神宮より、八幡大神の御分霊を同国笠原右源太が当地に奉遷。その後河野加賀守森幸が、右源太の孫左衛門をして本殿造営をしたが、松前藩祖信広との戦乱の為祭祀営繕不能となる。蝦夷地大乱の時、松前藩4代慶広が南部大澗より渡来の智楽院(藤山家の祖先)に七飯村藤山頂上で必勝祈願をさせ大勝し、その時アイヌ勢が七重浜の柏樹草木を軍勢と見て降参したのは八幡宮の加護と、藩祖信広の大弓半弓矢を奉納、正月6日の法楽神事を仰付け、七重浜の柏樹林の伐採を禁じ、松前藩の祈願所に定めた。慶長8年10月本殿拝殿を建立(現神輿殿・文久2年8月改築)。毎年祭祀料玄米25俵、各村の役納を仰付け大祭毎に代参。明治元年蝦夷統督清水谷侍従参拝。戊辰戦争では、幕軍榎本武揚・大鳥圭介等が当宮神殿で降伏を誓約。同2年8、12月侍従東久世通禧参拝。同9年郷社。同15年有栖川宮一品幟仁親王御真筆の奉納。同41年神饌幣帛料供進神社に指定。
社宝等
神輿殿(文久3年)
鳥居(弘化4年)
額(「松前若狭守章広謹書」文政10年5月)
絵馬(「官吏庵原平維則奉納」寛政12年)
軸(「有栖川宮幟仁親王直筆」明治15年)
その他 欅、オンコ各1本
境内
旧社殿
文久3年に改築され、現在は神輿殿として残されている。明治2年5月15日には箱館戦争の戦場となり、当時の弾痕が残る。同17日には旧幕府軍と新政府軍が会見して箱館戦争終結を迎え、その後神前にて降伏の誓約を行い、翌日五稜郭が開城となった。
特殊神事
松前神楽
境内外末社
函館薬祖神社(はこだてやくそじんじゃ) 少彦名神(すくなひこなのかみ) 亀田稲荷神社(かめだいなりじんじゃ) 宇迦之魂神(うがのみたまのかみ)