由来
源義経公が蝦夷地に落ち延びて、今の神岬村神威岬にさしかかった際に風浪が激しく船を進めることができなかった為、岬の遙か沖合にたつ衣冠姿に見えた神威岩に大綿津見神、志那戸神を奉斎し航海の安全を祈願したところ通過できたと伝わり、アイヌの人々もこれを「カムイ」として尊崇していた(この伝説に付随して女人禁制となる)。その後、松前藩の地頭藤倉近兵衛が神殿を神岬村に創建しアイヌ語の地名を用いて「志屋古丹《しやこたん》明神」、「於賀武意《おかむい》明神」として奉斎し、寛文3年に出稼ぎの漁民が社殿を再建した。文化2年には松前正神主白鳥遠江守が祭主となっている。慶応2年、社殿を現在の来岸村に移し、神威明神と尊称し積丹郡中の守護神として崇敬した。明治3年、本殿拝殿を再建するが社格が無く、明治8年郷社に列せられ大綿津見神社と改称した。明治44年、余別・来岸・神岬・西河の各村社稲荷神社を合祀する。大正4年神饌幣帛料供進神社に指定される。昭和6年10月19日に認可が下り、本殿を青森県産檜材にて改築する。同年8月20日に社名改称を出願、9月15日に許可される。昭和19年、向拝、拝殿、神饌所を改築竣工。昭和21年、宗教法人となる。昭和63年、御鎮座百二十周年記念奉祝祭を斎行した。
合併により合祀された歴史をもつ御祭神
余別稲荷神社 豊受姫神 創祀不明 明治44年4月15日合祀・来岸稲荷神社 豊受姫神 創祀不明 明治44年4月15日合祀・神岬稲荷神社 豊受姫神 創祀不明 明治44年4月15日合祀・西河稲荷神社 豊受姫神 創祀不明 明治44年4月15日合祀
社宝等
刀剣(「中川源治寄進伝松前藩公佩用太刀」)
その他 本社の神殿は、年代工作者共に不詳であるが、桧材に総色彩漆塗、彫刻は浮彫毛彫に金具金箔の配合等善美を尽くしたもので、本道中類例を見ない神殿といわれている。