由来
嘉永6年(1853)頃、山田文右衛門が航海の安全を祈念して弁財天を奉斎したことに始まると伝えられる。現存する宮太鼓に「嘉永六年四月山田文右衛門」とある。しかし、それ以前の享和3年(1803)に「義経祠シノタイより門別稲荷神社に移す」との記録があり、また享和3年8月に原新介胤暉が矢の根を奉納していることからも創祀はそれ以前と思われる。明治になり神仏混淆の祭祀が禁じられ、明治8年頃、永山武四郎将軍が本町を巡察し由緒の判然とない祠を撤去した際、平取のアイヌの長ペンリウクが義経像を平取に移したという記録が残っている。明治8年6月14日、村社に列せられ稲荷神社と称し現在に至る。
社宝等
矢の根(2)(享和3年8月17日原新介平胤暉奉納)、宮太鼓(嘉永6年4月山田文右衛門奉納)、額(2)(「義経安宅の関」「五条大橋」慶応元年7月山田文右衛門奉納)、花崗岩鳥居(慶応4年1月大関吉兵衛奉納)