由来
白老八幡神社の前身は江戸時代に建てられた弁天社である。寛政10年(1798)幕府蝦夷地調査隊近藤重蔵一行の秘書役として択捉島探検に同行した木村賢次の「蝦夷日記」に「シラヲイ川舟シラヲイ泊、弁天社アリ」の記述がある。その後、万延元年8月場所請負人初代野口屋又蔵の願いで誉田別神を勧請し、ここに弁財天社を八幡社と称するようになった。当時の建築規模等については、明治元年(1868)一ノ関藩が政府に引継いだ際に作成した「社寺並神職僧侶調」によれば「辨天社壱宇往古ヨリ在来候但三間ニ二間云々」とある。明治8年3月開拓使より郷社に指定され同年豊受大神を合祀し、白老・敷生・社台3カ村の白老郡郷社八幡神社となった。大正4年旧社殿を新築したが、昭和20年マッカーサー指令により社格が廃止され、同27年白老八幡社と改称して現在に至っている。
社宝等
絵馬(町指定・文久3年)、扁額(町指定・文政11年)、絵馬(2)(町指定)、扁額(町指定)
その他 道指定 北海道百年記念 北海道の名木美林百本の1本 明治14年9月3日、明治天皇が本道ご巡幸の当時、本村大沢周次郎邸を行在所とされ、その庭園にあって陛下のお賞めの言葉を賜った水松で、その後行在所は烏有に帰したが、この水松は白老八幡神社境内に移植して当時の光栄を伝えて北海道の指定名木である